人生の紀元
私の人生は安達としまむら(入間人間・著)、通称あだしまに出会う以前と出会った以後に分けられるという感覚が確かにある。B.あだしまとA.あだしまといったところだろうか。こんな言い回しだとイエスキリストに失礼だろうか。でも私にとってはある種の信仰だから間違いでもないか。
いつからか哲学的な思考を好むようになったり、自分の思考の癖みたいなものを考えるようになっていた。今考えてみるとそれはあだしまに出会ってからのような気がする。
しまむらの哲学が、入間人間先生の文章が私の思考に哲学の種を植えた。あるいは燻っていた種の肥料や水となってくれたのだろうと思う。
安達としまむらとの邂逅
烏滸がましい話だが、初めにあだしまを読んだときはしまむらへの共感の面が強かった。
ちょうど中退して新しい高校に入ったものの、めんどくさくなってさぼったりしていた時期だった上に、しまむら的な自分を少し客観視する癖がある、あるいはそういう思考に憧れていた時期だったからかもしれない。
初期のしまむらは割とどこにでもいそうな、仮面つけてる内向的なタイプといった感じだったし。
そして安達に関しては共感できる部分もありつつ、というか本来共感できるはずなのだが、自身の直視できない部分を具現化したみたいな人物という印象だった。
他者との関わりへの渇望なんてあるにはあるが普通は直視できないし、ましてや行動に移すなんてまあ出来ない。元々そういう面もあったのだろうが、いつしか渇望そのものを忘れかけている。人間のそんな部分を体現した人物。
そんなある程度共感できる部分のある二人が、少し歪ながらも日常を過ごしていくみたいなノリで始まるのだが、いつしかしまむらの哲学の森を彷徨うことになる。
いつからそうだったのかはわからない。
安達の奇行を面白がりつつも、触れ合うたびに自身が削られていく感覚を覚えているしまむら、みたいな構図だったのにいつからかしまむらが安達との関係をどう分析しているのか、しまむらの心情はどこでどう動いたのか、真意はなんなのかを読者たる私が読解する構図になる。
構成として、基本的には安達視点としまむら視点が章によって切り替わったり切り替わらなかったりするのだが、安達パートはまあシンプルだ。目的は一つしかないから。一貫性があるし、自分の気持ちというのを読者には一切隠さない。地の文を読めばどう思っているか全部わかる。
非常に親切で読みやすい。
対してしまむらパート。安達パートから見るしまむらはひとあたりが良さそうでそれなりに優しい、というか甘い。
だが、しまむらパートでは意外と優しいという感じではない。冷たいという感じでもないのだが、フラット。安達からアクションがあるから反応しているだけという感じで、あまり感情が大きく動かないように描写される。
故に安達から見て、そして読者から見ても底知れなさというのを感じる。表面上は優しそうなのに本当に感情があまり動いてない。なんなら関わりを持つことで自身の心が削られることを嫌がっている描写さえある。思春期にある他者との壁を少し厚めにしてみる、とかのレベルではない。達観し過ぎている。あるいは深い諦観。
前段の安達パートと比較していい意味で非常に不親切で読みにくい。
初めて読んだときなんかはこういう印象だったから8巻の大団円や途中の描写でのしまむらの心情が全く読めなかった。一貫性が薄いのかな?みたいな薄い読解をしていた。
その読解を試みて読み返すうちになぜ自分がしまむらの心情を読めなかったのかがわかってきた。
「地の文の嘘」という天啓
読み返すうちに分かったこと、それが
「地の文に書いてある登場人物の心情がその人物の真の心情ではない」
ということだ。
本によっては当たり前のことなのかもしれない。ただ私は共通テストの小説を解くような読み方で小説を読む癖があったので非常に新鮮な感覚だった。
小説やマンガというのは登場人物らが知らない情報を知っているという構造を楽しむものだと思っていた。恋愛作品で両片思いなのにドギマギしている様を微笑ましく思ったり、戦闘作品で罠に嵌められるとも知らず平和に過ごしている主人公一行にソワソワドキドキしたり。
そういうその世界で自分しか持ちえない視点があるからこそ作品というものは面白さがあるのかと。
ただ、あだしまは、というかしまむらは自分の心情、つまり地の文でも自分の心情に噓をついている。これがシンプルに嘘ならまだ読みやすいのだが、厄介なことに、
しまむら自身も自分の心情を直視できていないことに無自覚なのだ。
しまむら本人も自身の思う感情を自分のものだと思っている。だから地の文を読んだ者としてはそれが真だと感じてしまう。
しまむら自身も自分の心情を直視できていないんじゃないか?という考えは天啓だった。そして、この仮説を以て読み返すというのは非常に新鮮で面白い体験だった。解釈を固定化するようでいて、逆に広げてしまうような感覚。5,6巻あたりの起承転結でいう転の部分のしまむらの心情を援用するなどしてそれ以前の巻のしまむらの行動心理を推察するという読み方。
これはあだしまの読み方としても革新だったし、もはやこれに限らずこれから出会うすべての作品に援用できる読み方だ。この読み方に出会えたこと、それ自体がまず人生の財産だ。
人生における「地の文の嘘」
冷静に考えてみれば、自身の心情を直視せずに表層に浮かび上がったものを自身と思い込むなんてのはしまむらに限らなくて、人間ってのは往々にしてそういうものなんじゃないのか?と思えたことが次の人生の財産だった。
当たり前ではある。当たり前なのだがあまりに当たり前すぎて見落としていた。しまむらが自身の心が削れると思いつつ安達の存在を許していたことから自身の安達への想いを自覚したように、人間というのは行動を後から見返して自身の想いに気づくものだよなと。
この考えに出会ってから次は自身の人生を思い返すことになった。今まで見返すためのレンズを持っていなかっただけで、特定のレンズを使って人生を思い返すというのは面白いことなのではないか、これに限らずレンズというのはいくらでもあるものではないのかとさえ思えた。そうした中で出会ったのが哲学だった。
思考の補助線、あるいはレンズ
思い返してみると人生には個人的に印象深い場面や転換点など、いくつものポイントがある。というかそういうものの集まりに後から名付けしてるだけではあるか。
最近非常に強く感じることだが、人間は言葉を以てしか物事を理解できない。全ての感情や状況を悲しかったとか嬉しかっただけでは分けられないのだが、そういう今持ってる語彙では埋められない隙間を自身の力で埋めていくのは至難の業だ。
その上であだしま、入間人間先生の文章はその隙間を埋めるためのいい補助線をいくつも示してくれる。個人的に心に刺さったものの一つに以下のようなフレーズがある。
思い出は時間という水を注がれて薄くなる。
引用元:安達としまむら7 四章『小さく祈っている』
それだけは止められない。
残しておきたければ、濃くする他ない。だけど過剰に濃厚にしたそれはいつしか、本来の思い出とかけ離れていくものだった。わたしの思い出は、まだ、純粋だろうか?
こう見ると補助線というか、それまで持たなかったどころか存在さえ知らなかったような高解像度のレンズを差し出されたような気持ちになる。
この文章だって、考えてみれば当然のように感じられる。そして今まで考えたこともなかった。考えてみると寂しいような、なにを今更悲しがることがあるんだというような、割り切れない感情を抱く。
確かに思い出というのは時間が経つにつれ細部の記憶は抜け落ちるし、その時の感情は消え去ってしまう。それ自体は悲しいことのように感じられる。だからと言って忘れないよう努めてしまえばそれが目的化し、思い出の本来の形を失ってしまうような気もする。
このような文章がしまむらの心情ではよく出てくる。こういう考えは恐らく多くの人に当てはまるものでありながら、ほとんどが私のように見落としているか、直視出来ないでいる考えだと思う。直視出来ないのは自分の心の脆い部分を覗き込むレンズとして機能してしまうから。
しまむらはそうしたレンズを以て自分の心の脆い部分を直視している。そうした思考を浴びることで同じレンズで自身を覗き込んだり、自分なりのレンズを見つけていくようになった。
しまむらに見る「無自覚な孤独」とその飼い慣らし方
物語の構成としては1巻が起、2~4巻が承、5~7巻が転、8巻が一旦の結という印象なのだが、5~7巻の転でしまむらの思考が一気に進歩する。ここがもう本当に面白くてたまらない。
最初に読んだときはしまむらが底知れなくて怖い、8巻の大団円本当にありがとう、安達おめでとう、みたいな気持ちだったのだが、読むたびに本当に見方が変わっていって、今はしまむらの方が安達に救われていたのだなと。
最初は安達の不憫さやしまむらの底知れなさを真として見ていたが、しまむらの底知れなさは本人の武器でなく、無意識の孤独を抱える故の堅牢で脆い防壁でしかなかったのだと、慈しみすら感じられる。
そしてこれもまた人間の抱えるものの一つだよなとも思う。私は普段から孤独で苦しい~とは思わない。でもふとした時、一人になって冷静に自分の過去を思い返してみた時、
人間というのは本質的に孤独だ。
共通の言語を用いて相手を知り、自分を知らせているように感じられるが、使っている言葉の意味、持っている感情そのものが全く同じとは限らない上に、それを確認する術もない。そして恐らくそれらはまったく同じではない。
この考えもまた個人的には天啓だった。あだしまが与えてくれた財産の一つ。
そしてこれを基に見てみると人間というのはえらく孤独だ。それも無意識、無自覚な。
他者と分かりあったような気になっているが、言葉の送受信両方に自身のフィルターをかけてしか言葉というものを扱えない。言葉に限らず、物の見え方、聞こえ方、感じ方、全て同じとは限らない。他者を見ている時も自身を通して他者を見ている。いや、もはや他者を通して自身を見ている。
他者を思って行動しているとき、その思っている対象というのは自身の脳内にある他者像、自分の生み出した人格でしかないのだ。つまり他者を透かしとして自分の輪郭を確認しているに過ぎない。だから相手の反応によっては裏切られたような気持になったりする。
とは言いつつ、他者との繋がりを感じざるを得ない瞬間というのもある。言葉の意味が一緒なのかどうかは分からないが、今間違いなくこの相手と同じ感情を抱いている、同じ景色を見ているという確信。言葉のズレのようなものを意識するようになったからこそこういう確信というものが光輝いて見える。
そしてこの確信というのは大体無意識な行動から得られるものだ。まあ得られるといっても私が勝手に感じているだけのことではあるのだが…。
そう思うとこの感覚自体もこの孤独に対する麻酔に過ぎないことではあるのだが、こういう麻酔で定期的に気を紛らわすことでしかこの孤独に対抗する術はないのかもしれない。そして麻酔に過ぎないとは言ったが、それを分かった上でこの感覚は強力な麻酔になる。この感覚もまた自分のフィルターを通して得たものでしかなく、他者には翻訳できないものであるから。
人間というのは真の相互理解が出来ない故に孤独ではあるのだが、その救いとして自身の妄想、推察もまた相互に理解出ないのだ。私がある瞬間に思ったことは私の中では間違いなく真であり、それ自体は誰にも否定できない。つまり人間は自身の物語に溺れてもOK。
他者の物語に生きないために
自分の物語に溺れてもいいというのもまた新鮮な感覚だった。
自分が主に見ているSNSがTwitter(現X)なのも関係しているかもしれないが、人々の支持を得る言説というのは往々にして強い断言があり、攻撃対象が絶対に偽だと宣言するものだ。あるいは何かに熱中するものを冷笑したり。これらを否定しようとしたけど、彼らもまた自身の物語の中に生きているだけだし、否定はできないかも。
ただ、これらの断言を使った攻撃や冷笑は諸刃の剣と思っていて、言葉の通り、自身の剣が自分を刺すようになってしまうと考える。自身の心の中に地雷原を増やしているようなものだ。
生きていれば、過去に自分が攻撃・冷笑した対象と、再び相まみえることもあるだろう。その際は自身の過去と対峙することになるわけだが、これはなかなか手強い。自身の感じたことというのは自分の中では間違いなく真だからだ。その過去は変えられない。まあ、成長して考えが変わっただけだし~で回避する可能性も大いにあるのだが。
話がズレすぎた。Twitterみたいな場所で強い言説を見ても、自分なりの足場を見つけて着地点を持つことが肝要なのかなと。断言を使った文というのは脳をハックする力が強いのか、読みながら「あ、そうなんだ」と脳が納得してしまいそうになる。
この文章にも断言が多々使われているが、それを見るたびに、あるいは読み終わった後に該当部分の持論を確認しておかなければ書き手の傀儡となってしまう。自戒もこめて、これは記しておきたい。
積読という希望
あだしまについて書きたいことは無限に湧いてくるのだが、一旦あだしまとの出会い、そしてそこからの思考の変遷として締めておこうと思う。
最初にB.あだしま、A.あだしまと表現したが、ここに記したようにあだしまに出会ったことで新しく得た考えやものの見方が多いのは再確認できたし、そもそもそういうことについて考えるということ自体が最も大きな変化かもしれない。私という人間のOS自体をアップデートしてくれたのだ、安達としまむらという作品は。
こんなことを言いつつ、安達としまむら99.9やSSシリーズは積読したままになっているので読んでいきたい。そしてそこでも新しい知見が得られるのが楽しみだ。

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